「読書の醍醐味を味わう」など、ものごとの本当の楽しさや奥深さ、
深い味わいを表し、これ以上ないと言う「最上級」といった意味で使われる言葉です。

お釈迦様が残した涅槃経と言う経典の中に、
「牛乳は乳である→乳は酪へと変わる→酪は生蘇と変わる→
生蘇は熟蘇と変わる→熟蘇は醍醐と変わる→醍醐は最上なり」という製造過程が記され、
「醍醐」が最上のものであると説いています。
この涅槃経の「醍醐」の存在が「醍醐味」と言う言葉の語源とされています。



また、涅槃経の「醍醐」の記述の中で、
「若し服すること有る者は衆病皆除こる、所有の諸の薬は、悉く其の中に入るが如し・・・」
という言葉があり、
「醍醐」が当時の“万能薬”のごとく扱われ、人の健康に大いに寄与することを説いていらっしゃいました。

当時の「醍醐」は牛乳を煮詰め熟成させて作られるチーズ様の高級食品だったと考えられていますが、
最上級とされる「醍醐」の製造方法は完全に絶たれ、
“幻の食品”とされてきました。
この幻とされてきた「醍醐」。
実は...現代において脈々と受け継がれ、実在しているのです。

“醍醐”は、お釈迦様の大切な教えから生まれた、かけがえのない“宝物”です。


“醍醐”の存在を涅槃経から読み解き、
初めて研究をされたのが「大谷光瑞」猊下です。
京都の西本願寺第22世門主、伯爵だった方です。

大谷猊下は、ヨーロッパ留学中に西域探検の成果を見聞して、
自ら仏教の歴史やその痕跡を探ろうと探検隊を組織し、
1902年から14年間、3回にわたってシルクロードに沿い、
西域に探検隊を派遣しました。

これが歴史上有名な「大谷探検隊」です。

「大谷探検隊」は他の探検隊とは違い、探検隊のメンバーも仏教徒でした。
仏教の教えの追求と、仏教徒がそれまで受けたとされる迫害の真実や、
現存する経典や仏像、仏具等の収集を目的にしていました。
その中で大谷猊下は、
発掘された仏教の経典を翻訳し研究する仕事などをしていました。
そこで涅槃経から「醍醐」の存在を読み解くことになります。

大谷猊下は、39歳で門主をお辞めになり、中国の大連に大谷光瑞農芸化学研究所を設立。
ここで「醍醐」の研究に没頭されました。


大谷光瑞猊下と共に「醍醐」の研究をされたのが「正垣一義」氏です。
正垣氏は、お父様の角太郎氏と一緒に日本で初めてヨーグルトを
製造・販売された方です。

人の健康のためになると信じ、ヨーグルトや乳酸菌飲料を販売して、
当時は高収入を取れるようになりましたが、
忙しく働いているさなか最愛の奥様を若くして亡くしてしまわれました。
失意のどん底の中、心の拠り所として大谷猊下が主催する「光寿会」に入会し、
大谷猊下を“師”と仰ぎ、仏教の道を学びました。
そんな折、政府の依頼で訪中の機会を得た正垣氏は、
師と仰ぐ大谷猊下が大連にいると聞きつけ、念願が叶い、
会うことができたそうです。
そこで、正垣氏のそれまでの業績を評価され、
乳酸菌の更なる研究の為、研究所の次長として就任しました。
研究を続けている内に、正垣氏は大谷猊下から
「あなたの研究は未完成である。経典からすると醍醐には至っていない。」
という指摘を受けたそうです。
そして、「乳酸菌」ではなく乳酸菌が代謝したエキス(生産エキス)こそが人の健康を救うものだと教えられました。
正垣氏は、今まで長年に渡って行ってきた自分の研究は一体何だっただろうか?
と深く考えられたそうです。
正垣氏はそれ以来、“醍醐”の再現のために、
16種に至る乳酸菌の共棲培養と代謝物の開発に転換し、
「醍醐」の研究に没頭されました。
大谷猊下から正垣氏へ、研究期間は25年以上を数え、
昭和20年ついに“乳酸菌生産エキス”の製造に成功しました。

これこそが、お釈迦様の涅槃経から読み解き、
現代にまで脈々と引き継がれている「醍醐」そのものです。

敗戦の後、日本に「醍醐」を作る“親菌”を持っていき、
さらに研究を続けるよう大谷猊下から命じられ、昭和22年に“醍醐”は日本に持ち込まれました。
その後、日本で研究を再開した正垣氏は、
当時の大臣の林譲治厚生大臣、高瀬荘太郎文部大臣の推薦で、
昭和24年、昭和25年に2度、国会にて「長寿論と有効細菌について」講演し、感謝状を受けております。



大谷猊下、正垣氏の功績により、涅槃経から再現された「醍醐」。

この「醍醐」を作る基となる“親菌”は、
昭和20年から現在に至るまでの数十年間、
15日ごとに行う“継代培養”をいかなるときも欠かさずに実施し、
現代においてもその“製法・技術”は伝承されています。

大谷猊下、正垣氏から続く伝承は、“親菌”を含め、
正垣氏から真に認められた人間のみに引き継がれ、
決して真似事のできない“一子相伝の技術”そのものです。

“幻”とされてきた「醍醐」は、二人の研究者の大いなる功績、
そして、その意志を引き継ぐ研究者によって、現代(今)でも実在しているのです。




これが大谷猊下、正垣氏から続く正当伝承された本物の醍醐を作る基となる、16種35株の“親菌”です。

“親菌”は15日ごとに継代培養することを60年以上欠かさずに行っています。
【継代培養】…… 培養において、継承を・維持していくために、新しい培地に移し再び培養すること。









培養するための培地となる豆乳の原料、大豆は無農薬有機栽培に慣れた専業農家がつくっております。
丸々と粒が大きく、栄養豊富な大豆のみを使用しています。市販の大豆では絶対に味わえない、濃厚でとてもおいしい豆乳です。
豆乳に付着していた菌や、空気中から入った菌を排除するため滅菌・冷却し、善玉菌のみを培養できる培地をつくります。
クリーンベンチ(無菌室)内にて慎重に16種35株の親菌を、無菌状態の豆乳に注入します。
5日間連続120時間ほど培養します。培養中は菌の生命力を活発にするため音楽を流します。音楽を流すと、菌の活動が活発になるのがはっきりわかります。
生きた菌がいない状態にします。
醍醐と死菌を分離します。
醍醐だけを抽出するため、生きている乳酸菌を滅菌し乳酸菌が代謝したエキスと死菌に分けます。
この複合乳酸菌が代謝したエキスだけを抽出したものを「醍醐」といいます。
乳酸菌と乳酸菌生産物質は全く違うものです。